自己実現、夢を叶える、努力

結果が出なければ努力は無意味なのか?それとも努力したならダメな結果だったとしても意味があるのか?

結果が出なければ努力は無意味なのか?それとも努力したならダメな結果だったとしても意味があるのか?

努力について、世の中には「一見、矛盾しているように見える言説」が二つあります。
それは以下の二つです。

  • 努力したって結果が出なければ無意味。結果がすべて
  • 例えどんな結果だろうと、努力には意味がある。失敗したとしても経験になるのだからそこには意味がある

 

「この二つは、どちらが正しいか解説してほしい」
という問い合わせを頂いたので、今回はこれをまとめます。

最初に結論を言うと、答えは「どちらも正しい」です。
そもそもこれは「前提としている着眼点が違うだけ」で、どちらもその着眼点においては正しいのです。

大切なのは結果であり、努力過程ではない

まず、「大切なのは結果であり努力過程ではない」という見解。
これは「客観目線」ではその通りです。

例えば、あなたの友人が「東大に合格したい」と考え、1年間死に物狂いで勉強したとします。
でも結果的には東大受験に落ちてしまいました。
合格に必要なラインまで、点数をとることができなかったとします。

ここでその友人が、こんなことを言い出したらどう思いますか?
「確かに僕は点数が足りなかったです。でも僕なりに努力はしたんです…。1年間、がんばってきたんです。だから東大合格にさせてください」

…それはさすがに「スジが通らない」と思いますよね?

別の例も出してみましょう。
仮にあなたがAという会社の株を1000万円分、持ってるとします。
あなたは株を持っている以上、その会社の売り上げが伸びて欲しい立場です。

しかしA社の社長が退任し、新しい社長が就任したとします。
その後、売上が50%減ったとします。
もちろんあなたの株は大暴落。
もともと1000万円あった価値は、一気に100万円まで減りました。

当然、あなたは怒ります。
株主総会で、新社長に説明を求めます。

そこで新社長がこう言ったらどう思いますか?
「でも、僕も僕なりに頑張ってはいたんです」
「努力は認めてほしいです」

…いやいや子供かー!
って思いますよね?

このように「客観的な目線」では、努力そのものにはなんの意味もありません。
他人はあなたの努力になど興味がありません。
他人が興味があるのは、あなたが頑張ったことによってどのような結果を生み出したか?であり、努力過程そのものではありません。
 
つまりどんなに努力しようとも、結果として何も生み出せていないなら、そんなものは無価値です。
少なくとも他人からすれば。
 

主観的には、どんな結果でも努力には意味がある。

しかし同じ問いが、視点を「主観」に変えると別のものに変わります。

主観で考えた場合は、どんな結果だったろうと、あなたが努力したことは必ず意味があります。
それ自体が失敗だったろうと、その過程で学べることは多くあったはずです。

その失敗体験をもとに、次の成功を引き寄せられるかもしれません。
だから、どんな結果だったろうと、本気で頑張っているのであれば、それに意味がないなんてことは絶対にありえない。

例えば、もしあなたが「東大に合格したい」と考え、1年間死に物狂いで勉強してきたとします。
でも結果的には東大受験に落ちてしまった。
確かにそれ自体は悲しいでしょう。
でもそうやって一つの何かを目指して努力してきた経験は、必ず次に活かされます。

実際、僕の知人でそういう人がいました。
彼は東大受験失敗後、滑り止めで受けたBランクの大学に行くことになりました。
しかし4年間の中でたまたまアルバイトをしたIT企業で、「優秀だから社員にならないかい」と言われました。
卒業後は面接もなしにそのまま社員になることができました。
ITベンチャーだったため、それなりに激務な環境ではありました。
その分、給料はかなり優遇されていましたが、とにかく仕事量が多い。
だから普通の人は12時間も14時間も会社にいるような環境でした。

でも彼は、きっかり8時間で帰るのです。
しかもサボっているわけではなく、むしろ普通の人の3倍近い仕事をこなしていました。
みんなが苦しそうに12時間かけて頑張っている中、彼はとても楽そうに8時間労働で300の成果を出していました。
ある日、同僚が聞きました。
「なぜそんなにも要領よく働けるの?」

すると彼はこう答えました。
「東大受験に必死こいてた頃に比べれば、今の仕事量なんて全然多いうちに入らないですよ。東大受験のときは、1日16時間勉強してもまだ足りないとかそういう次元だったんで…」

彼は、東大受験そのものでは結果を出せなかったものの、そこを目指して頑張っていた経験のおかげで「これだけ抱えると苦しいというキャパ」が、普通の人よりも圧倒的に高まっていたのです。
キャパが多いから、焦らず、落ち着いて仕事に向き合うことができる。
落ち着いてこなすから、普通の人よりも要領よく進めることができる。
だから、普通の人の66%くらいの作業量で、普通の人の3倍の仕事をこなせていたというわけです。

こういった事例は他にもいくらでもあります。
もしかしたら今これを読んでいるあなたの周囲にも、そういう体験談を持っている人がいるかもしれません。

先ほど僕は「客観的な視点では、結果を出せないなら無意味」と言いました。
でも「主観的な視点」に変えると、これは逆になるわけです。
主観的な視点では、どんな努力も決して無駄になることはないのです。

視点を混同して考えるから、話がややこしくなる。

ようするにこの問題は、「視点の違い」なのです。
客観的に考えれば、努力そのものに意味はない。
でも主観的に考えれば、どんな努力にも必ず意味がある。
ところがそういった視点の違いを踏まえず、ひとまとめに「結果が全てか?」 「努力に意味はあるか?」と考えるから、話がややこしくなるわけです。
 
モノの価値は、前提条件によって変わります。
ペットボトル一本のお茶は、日常生活の中では100円の価値しかありません。
飲みかけのまま捨てたところで、さほど損をした気にもならないような、安っぽいものだ。
 
しかし、あなたが砂漠の中心で遭難中だったらどうでしょう。
絶対に「飲みかけのまま捨てるようなこと」はしないでしょう。
最後の一滴まで、搾り尽くすように飲むでしょう。
 
このように、ものの価値は前提条件によって変わります。
だから努力そのものの価値も、何を軸に考えるかで変わるというわけです。
 

努力に意味はないと突きつけられた小学生時代。

少し話は変わります。
 
僕は小さい頃、通信簿でずっと五段階評価で2ばっかりとってるこでした。
でもある日、「国語」でのみ、初めて4をとることができました。

僕はそのことが嬉しくて、だから家に帰ってから、お父さんにそれを報告しました。
 だけどお父さんは僕が思っていたような反応をしてくれませんでした。

「確かに国語は4とれてるけど、他のが相変わらず2ばっかりじゃん。むしろこっちは下がってるじゃん」
 
そう言われたとき、僕はすごく悲しかったです。
自分の頑張りが認めてもらえなかった。
自分の中で達成したことが、認めてもらえなかった。
共感してもらえなかった。
悲しい。
すごくすごく悲しい。そんなふうに感じました。
 
…でも、あれから20年の月日がたりました
あの頃はただただショックなだけだったこのエピソードを、今ではもう少し冷静に分析することができます。
 
あの当時の僕の努力は、確かに客観的には無価値だったのだと思います。
確かに初めて4をとれたといえど、全体では3だったものが2に下がっていることも多く、総合的にはむしろ下がっていたわけなので。
ですので、これはこれで一つの評価だったと受け入れればいいでしょう。
 
でもだからといって、自分の中で誇りに感じていた部分まで否定する必要はありません。
あの時僕は、国語が4になったことがすごく嬉しかったわけで、それは僕の主観的には、とても大きな価値があったことだったのです。
これまでは一度も超えられなかった壁を、あのときの僕は、初めて超えることができたわけなので。
 
つまり僕の努力は、無価値だったけど、価値があった。
価値があったけど、無価値だった。
そういうことだったのです。

こんなふうに、「客観的な価値」と「主観的な価値」を切り分けて考えるようにすると、努力に対して冷静に評価できるようになります。

このことが理解できれば…

  • どれだけ他人に評価されないからといって、自分の中の苦労や辛さまで否定しなくていいことに気付くはずです。どんなに評価されなくても、あなたは頑張ったのですから。
  • でもどれだけ自分が辛かったからといって、そのことを理解してくれと他人に求めるのは間違っていると気付くはずです。他人はあなたのママではないのだから。

 
努力に対する「他人の価値」と「自分の価値」を分離する。
これが、適切な努力を行うために必要な、スタートラインです。 

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